イヌ


12/11/2022

(犬、狗、学名:Canis lupus familiaris、ラテン語名:canis、英名:dog、domestic dog)は、食肉目・イヌ科・イヌ属に分類される哺乳類の一種である。 属名 Canis、種小名 lupus はラテン語でそれぞれ「犬」「狼」の意。亜種名 familiaris はやはりラテン語で、「家庭に属する」といった意味である。広義には、イヌ科動物全般を指すこともある(後述)。現代の日本では屋外、あるいは屋内で飼われ、ペットとして猫と並ぶ代表的な動物である。 古来、日本ではヤマイヌ(狼)に対して「イエイヌ」(家犬)と言っていた。英語名 domestic dog は、伝統的な学名 C. familiaris(家族の-犬)を英訳にしたもので、日本では domestic dog の訳語として古くからすでにあったイエイヌの語をあてるようになった。 また、広義の「イヌ」は広くイヌ科に属する動物(イエイヌ、オオカミ、コヨーテ、ジャッカル、キツネ、タヌキ、ヤブイヌ、リカオンなど)の総称でもあるが、日本ではこの意味での言葉の用法、用例はあまり一般的ではなく、欧文翻訳の際、イヌ科動物を表す dogs や canine の訳語として当てられるときも「イヌ類」などとしてイエイヌと区別するのが普通である。以下では狭義のイヌ(ヤマイヌなどを除くイエイヌ)についてのみ解説する。 イエイヌは人間の手によって作り出された動物群である。最も古くに家畜化されたと考えられる動物であり、現代でも、イエネコと並んで代表的なペットまたはコンパニオンアニマルとして、広く飼育され、親しまれている。ただし比較されるネコと違って独特の口臭(後述)がある。 野生化したものを野犬といい、日本語ではあたかも標準和名であるかのように片仮名で「ノイヌ」と表記されることも多いが、野犬(やけん)を誤って訓読したため生じた新語である。いずれにせよヒトに飼われているか否かという状態の違いでの区別であって、分類学上は種や亜種としてイエイヌとは区別されない。 現在[いつ?]、ジャパンケネルクラブ(JKC)では、国際畜犬連盟(FCI)が公認する331犬種を公認し、そのうち176犬種を登録してスタンダードを定めている。 なお、非公認犬種を含めると約700 – 800の犬種がいるとされている。 また、頭数については世界全体では4億匹の犬がいると見積もられている。血液型は8種類と犬種の数に比べれば少ないがヒトよりも多い。
 

魁!!男塾


12/11/2022

『魁!!男塾』(さきがけ!! おとこじゅく)は、宮下あきらによる日本の漫画作品。また、それを原作にしたテレビアニメ、実写映画作品。2019年5月時点で累計発行部数は2700万部を突破している[1]。 行き場の無くなった不良少年たちを全国から集め、過激なスパルタ教育を施す男塾。そこに籍を置く塾生たちの根性や友情、死闘を描く物語。初期は軍国主義テイストのギャグ漫画であった[注釈 1]が、途中から信念を掛けての上級生との決闘、ライバル学校との抗争、闇の世界で繰り広げられる格闘トーナメントなど、バトル中心の展開へとシフトして全34巻という長丁場の人気漫画となった。 登場人物のほとんどが中国拳法やインド・エジプトなどに伝わる様々な武術の達人とされ、物語中期には15人以上におよぶ主要人物に満遍なく見せ場が与えられている。また闘いの舞台には様々な仕掛け、特殊な決闘方法を用いたものが大半であり、各々がトリッキーな秘技を駆使することにより、バリエーション豊かな死闘が繰り広げられる。 作者の宮下は、「人を死なせないことを意識して描いた」と語っており、死んだ(と思われていた)人物が「実は生きていた」と、再登場するパターンが多い。これは自分が生み出したキャラクターをそう簡単に死なせたくないという愛情からだというが、あまりにやりすぎたため、死亡している設定の登場人物を原稿に描き、担当編集者に指摘されたこともあるという[3]。本編中では死亡したままのキャラクターも、後継作品では復活している場合がある。 タイトルの「魁!!」は宮下が気に入っていた文字であり、魁傑から取ったとのこと[4]。 学園生活編筆頭剣桃太郎を始めとする男塾一号生のメンバーが、理不尽な教官や二号生らの強烈なしごきに耐え乗り越えたり、外の世間とのトラブルに巻き込まれ(男塾の面々が騒動の原因の場合が多い)ながらも、知恵や人情、そして男気で解決していく。 驚邏大四凶殺(きょうらだいよんきょうさつ)編男塾の運営費が底を突きかけ、この苦境を打破すべく江田島は愕怨祭(がくえんさい)を起こすことにより利益を上げて赤字の穴埋めをすることにする。しかし愕怨祭が盛り上がっているときに、伊達臣人率いる関東豪学連が攻めてくる。男塾名物競技で争うが決着をつけることができず、江田島は驚邏大四凶殺を提案。伊達たちは承諾し霊峰富士で決着をつけることとなる。 大威震八連制覇(だいいしんぱーれんせいは)編[注釈 2]驚邏大四凶殺は男塾勝利で決着がつく。しかし桃以外の戦士は全員死亡し、一人生き残った桃は、寝転びながら朝日を眺めていた。そこへ不審な影が現れ、驚邏大四凶殺は影の手の内で行われたことだったと告げる。桃が下山すると残りの仲間は生きていた(その後、豪学連側の4名も生存が確認される)。喜びもつかの間、桃たち一号生は三号生に呼び出しを食らう。呼び出し人の名前を聞いて富樫は顔色を変える。三号生に会うために天動宮へ行くが、そこには試練が待ち構えていた。
 

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン


12/11/2022

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 – 1951年4月29日)は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者。イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。以後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが[1]、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く。その後、オーストリアに戻り小学校教師となるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。62歳。生涯独身であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『哲学探究』がよく挙げられる。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。 名前の表記[編集] ウィトゲンシュタインの「Wi」という部分は標準ドイツ語およびオーストリアドイツ語では「ウィ」ではなく「ヴィ」と発音される[注 1][注 2][注 3]。しかし、慣用的に用いられる表記にしたがって、本項では概要および以下の記述において、ルートヴィヒ本人に限り便宜上、「ウィトゲンシュタイン」に統一する。 1889年4月26日にオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれた[2]。ウィトゲンシュタインは4歳になるまで言葉を話すことができず、その後も重度の吃音症を抱えていた[3]。そのため両親は家庭教育に専念することに決め、彼を小学校に通わせなかった。祖父ヘルマン・クリスティアン・ヴィトゲンシュタイン(ドイツ語版)は、ドレスデン十字架教会で洗礼を受けユダヤ教からルター派に改宗したのち、ザクセンからウィーンへと転居したアシュケナジム・ユダヤ人商人であり、その息子カール・ヴィトゲンシュタイン(ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた[2]。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はカトリックだったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリック信仰を実践したとはいえないものの、カトリック教会で洗礼を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。 グスタフ・クリムトによるルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像(1905年) ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4人、姉が3人)として刺激に満ちた家庭環境で育った。ヴィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており[2]、そのなかにはヨーゼフ・ホフマン、オーギュスト・ロダン、ハインリヒ・ハイネなどがいる。グスタフ・クリムトもヴィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている[注 4]。 ヴィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でフェリックス・メンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ヨハネス・ブラームスやグスタフ・マーラー、ブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィーク(ロベルト・シューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた[4]。ルートヴィヒの兄パウル・ヴィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、モーリス・ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、セルゲイ・プロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している[4]。 ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった[4]。哲学的著作のなかでもしばしば音楽の例や隠喩をもちいている。一方、家族から引き継いだ負の遺産としてはうつ病や自殺の傾向がある[注 5]。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた[5]。