ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 – 1951年4月29日)は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者。イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。以後の言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが[1]、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く。その後、オーストリアに戻り小学校教師となるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。62歳。生涯独身であった。なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『哲学探究』がよく挙げられる。そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。
名前の表記[編集]
ウィトゲンシュタインの「Wi」という部分は標準ドイツ語およびオーストリアドイツ語では「ウィ」ではなく「ヴィ」と発音される[注 1][注 2][注 3]。しかし、慣用的に用いられる表記にしたがって、本項では概要および以下の記述において、ルートヴィヒ本人に限り便宜上、「ウィトゲンシュタイン」に統一する。
1889年4月26日にオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれた[2]。ウィトゲンシュタインは4歳になるまで言葉を話すことができず、その後も重度の吃音症を抱えていた[3]。そのため両親は家庭教育に専念することに決め、彼を小学校に通わせなかった。祖父ヘルマン・クリスティアン・ヴィトゲンシュタイン(ドイツ語版)は、ドレスデン十字架教会で洗礼を受けユダヤ教からルター派に改宗したのち、ザクセンからウィーンへと転居したアシュケナジム・ユダヤ人商人であり、その息子カール・ヴィトゲンシュタイン(ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた[2]。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はカトリックだったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリック信仰を実践したとはいえないものの、カトリック教会で洗礼を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。
グスタフ・クリムトによるルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像(1905年)
ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4人、姉が3人)として刺激に満ちた家庭環境で育った。ヴィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており[2]、そのなかにはヨーゼフ・ホフマン、オーギュスト・ロダン、ハインリヒ・ハイネなどがいる。グスタフ・クリムトもヴィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている[注 4]。
ヴィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でフェリックス・メンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ヨハネス・ブラームスやグスタフ・マーラー、ブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィーク(ロベルト・シューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた[4]。ルートヴィヒの兄パウル・ヴィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、モーリス・ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、セルゲイ・プロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している[4]。
ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった[4]。哲学的著作のなかでもしばしば音楽の例や隠喩をもちいている。一方、家族から引き継いだ負の遺産としてはうつ病や自殺の傾向がある[注 5]。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた[5]。